流動化、労働者、ストライキ

 まつたにさんがid:TRiCKFiSH:20040914#p1でこう書いている。

  正直、『AERA』が「負け犬」とか騒いでて、それにキャリアたちが共感しているようですが、そんなこと言ってられる余裕のある層はほんの一部なんです。阪本順二の映画『顔』の主人公のような、男どころか金もない「真性・負け犬」が、今後団塊ジュニアの中年化にともない大量増加するわけです。それに気づかずに「東電OLは私だ」とかだけ騒いでるマスコミのキャリア女性たちは、あまりにも鈍感だと思う今日この頃なのです。
 さて、「雇用の流動化」などと言われる昨今ですが、このような言説には罠があります。というのも、流動化しているのは、実際は正社員ではなく契約・派遣社員などの非正規雇用者たちばかりだからです。当たり前といえば当たり前ですが、海外の契約社員と日本の契約社員の内実はまったく違います。前者は能力の流動化を意味しますが、後者は人件費の削減対策です。つまり、日本では正社員の既得権益護持のために、「雇用の流動化」とか言われているわけですね。
 もちろんこのシステムには、敗者復活戦はとても小さく設定されています。つまり、非正規雇用者が正規雇用者になるための門戸は、とても狭いのです。そんな「構造改革」で、「経済回復」とか「V字回復」とか、ちゃんちゃらおかしいわけです。
 ここで注意していただきたいのは、私は「雇用の流動化」じたいを非難しているというわけではないことです。そうではなく、非正規雇用者が、正規雇用者よりも冷遇されているということを問題視しているのです

 それで、正規社員になったらなったでどうなるか、というと以下のようなことになる。

政府は1992年に時短促進法で労働時間を減らす目標を掲げた。[平均労働時間が]当時の1958時間から2003年度には1853時間に減ったものの[中略]この時間削減はパートやアルバイトの採用拡大によるところが多く、人数の減った正社員の労働時間は逆に長くなっている。(日経新聞オクノ総研の日記経由で)。

たいへん。
 これに加わるのが、あまりにひどいだろうということで

ある業界の労働者がストをしようとしたり、公務員の労働条件待遇改善が話題になるたびに、もっとひどいとのがあたり前といって批判し、勤労者どうしで足の引っ張り合いをしている日本の構図 *1

 ふむー。
 頻繁にストをやってて(つっても一段落はしたか)、それでかなり不便なことがあっても、それでも基本的にはストをする人々を支持するのが普通のイギリスに住んでると(ストライキについては一度id:flapjack:20040305で少し書いた、そこでも書いたけど)日本は消費者でいるには天国だと思うけど労働者をやるにはきつい国だとやはり思わざるを得ない。イギリス人がストで生活の一部が不便になっても耐えられるのは、イギリス人が日本人ほど消費者としてうるさくないということがそもそもあると思う。逆に日本では、消費者としての自分と労働者としての自分はほんとは一つのはずだけど、消費者パーソナリティーのほうが日本ではつよいのかなあ、とか。日本とイギリスの違いの間で僕はつらつらと考えてしまう。
 そういう意味で、プロ野球での選手会のストとそれに対する人々の支持というのはかなり大きな変化ではないか、と思ってる。けど、そこはどうなんでしょうかね。

*1:id:fenestraeさんのid:sarutora:20040923#cでのコメント:法政大学の鈴木晶氏が日記で都立大のコピー枚数について書いたことに関して

追記

 上のエントリーに関して、ふだん愛読させてもらっているはてなダイアラーの方々からリファをいただく。
id:tokyocat:20040926
id:pavlusha:20040926
id:sarutora:20040926

 上のエントリーの最後で「プロ野球での選手会のストとそれに対する人々の支持というのはかなり大きな変化ではないか、と思ってるんだけど、どうなんでしょうかね」と書いたのに対してsarutoraさんからコメントをいただいた。そこからかなりくねくねと考えをめぐらせてしまった。まずはコメントを引用:

私は、なんか例の人質事件のことを考えてしまいます。あのとき、「主張する弱者」がたたかれた、と言われたのですが、今回の場合、古田が、対決姿勢を全面に出さず、むしろ苦悩するリーダーみたいなイメージを作り上げたことが、人々の同情を得た面もあるのではないかと。ファンにあやまったり、感極まって号泣したり(見てないけどそうらしいですね)。人質家族も、「国民」にあやまっていれば、あそこまで叩かれなかった、などと言われました。……というようなことを考えると、どうなんだろう、とおもっちゃいます。

 たしかに古田がうまく振舞ったという要素はでかいのだと思います。そうだとして、僕としては、結果としてえた人々からの支持というのは、それ自体としてかなり重要だという考えはあまり変わっていません。
 (昔からかもしれないけれど、特に)今の日本は、単純に正しいことをいっていればとおるという世の中では完全になくて、正しいメッセージでも、それをうまくコミュニケートする能力がなければ通じないどころかかえって逆効果になる。そういう意味で(よかれあしかれ)ある種のものすごく高度な批評眼をもっている社会であるわけですよね。
 一方で、確かに、人質家族にうまくコミュニケート能力をそこまで求めること自体、酷だというか単純に「筋違い」であることは確かだとおもうし、あそこまでバッシングをする世の中はたしかに「どうなんだろう」と思います。
 他方で、人質家族が政治活動を過去にしてきた人々であったとしたならば、コミュニケーションということに関してあまりにもナイーブであったのではないかという気も確かにします。
 単に批判をし自らの正当性を主張して世の中が変わるならいいけれども、そもそもそういうふうにうごいてきていない世の中はそう簡単に変わらないわけで、だからこそ、コミュニケーション能力がますます重要になる。その意味で、古田は現実主義者だったと思いますし、非常に賢明に行動したと思います。
 だから古田バンザイということで済ますのもなんか違う。要するに、情緒的政治の問題を認識しながら、望まれる効果(この場合ではストに対する支援)をうるためには、その情緒的政治に一度乗らねばならないという(ようにみえる)現実をどう考えるのかということなのかなあ。
 一つの鍵は、情緒的政治に一度乗らねばならないというときに、それは「演技(フリ)」という問題ではないということかな。古田だけでなくて、切込隊長が絶賛する日本ハムのトレイ・ヒルマン監督の「3時間半ぶっ通しの超ロングランサイン会」とか、こういうのは「演技」ではなくて、コミュニケーションするという意志と方法の問題だと思う。
 なんだか、ぐちゃぐちゃですね、考えが。
 ともかくも、日本ではストライキというわかりやすい異議申し立てのかたちが効果という点でほとんど封じられてきたことを考えると、今回のプロ野球選手会ストライキはかなり特筆すべき事態だと思います。(Junky(id:tokyocat)さんがリンクされてる東京新聞の記事参照)
 一方、情緒的政治に一度乗るというのとは別に、Junkyさんが紹介してくださったid:toni-tojadoさんのメール・携帯を活用してPCの稼働時間を記録することでサービス残業に抵抗する方法なんてのもある(id:toni-tojado:20040926)。

実際、労働基準署の立ち入り調査であげられる会社はすべてPCの稼働時間で言い逃れができなくなり、社員が誰一人口を割らなくても降参しています。

クール!
 むざむざと「分轄統治」(id:pavlusha)されることなく、自分も生き残りつつ、他人の生き残りもできれば応援しつつやってく。まあ、ぼちぼち。


話はずれるけど、id:tokyocatさんの村上春樹アフターダーク』評(id:tokyocat:20040925#p1)。村上春樹について去年から感じていたことをずいぶん言語化してもらった感じがして勝手にありがたく思っている。宿題がつみあがるばかり。