Kazuo Ishiguro, Never Let Me Go

そういえば、Kazuo Ishiguro の Never Let Me Go もだいぶまえに読んだんだけど、書いていなかった。Never Let Me Go
 
この小説は、ある種SF的状況を描いていて、それはもちろんこの小説の枠として非常に重要なのだけど、それよりもなによりも、その状況を「ふつう」のこととして体験しつつ育った女性が一人称で語る、その語り口が核だと思う。
 
同じことをいいかえる。外側から見ればその状況は「異常」以外のなにものでもないのだが、その異常さ自体はこの小説のテーマではない。いわば巨大なシャボン玉のなかで育った主人公たちが、そのシャボン玉に内側から近づきさわるようにして、その世界の輪郭をたしかめていく、その女の子がみずからその内面世界を一人称で語る。それを Ishiguro は書ききってしまっているように見える(連れは僕よりもこの小説を先によんだのだが、どうして女の子の心の動きがここまでわかるのかと驚嘆していた)。わずかずつおこる些細な出来事の積み重ね、そうした出来事によって逐一おこる心の微妙な動き、それらが正確にトレースされ、まさに haunting としか形容できない感情が呼びおこされる。この形容詞はこの小説家のためにあるのではないかと思う。
 
しかし、この紹介、好きだわ。
http://d.hatena.ne.jp/shady_lane/20051012#p1

Vikram Seth, A Suitable Boy 読了!

今を振り返れば、一年半も前にこの小説を読みはじめた(id:flapjack:20040913#p1)が、昨日風呂のなかにてついに読了した(ハフー、遠い目)。A Suitable Boy: The classic bestseller
 
イギリスから独立したばかりのインドが初めての総選挙をむかえるだいたい一年の時間を、架空の町ブランプール Brahmpur を主な舞台として、パノラミックなスケールで描く小説。全部で1475頁。
 
長いなあ、と思いながら読んだところも確かにあるにはあるのだけど、だいたい世界というものはそういうものでもあり、読み終わってみると、半分そこに住んでいたような気さえして、非常に感慨深い。
 
しばらくいろいろ思い出しながら反芻しそう。
 
そういう感覚をここのところあじあわせてくれたものといえば、たとえば、id:flapjack:20040818#p1でふれたイタリア映画「青春の輝き」(The Best of Youth)―おー、ついに英語版が今年2月7日に発売されているではないか*1―とか、水村美苗の小説―『本格小説本格小説〈上〉 (新潮文庫)―とか、あれ、あげだすときりないな。
 

ためいき

今、どうしても時間も体力も気力も割けないので、一般論をつぶやく。
 
自分の言い分(の結論)は明示せずに、しかし論争相手はそれを理解するよう要求するという書き方は好ましくない。
 
論争相手はそれを深読みし、さらに、それが相手の意図としているところか定かでないまま、その意図を書くことをせまられる。
  
それを見た上で「それは私の意図しているところではない」とか「そんなことは自分はいっていないのに、勝手に深読みされてしまっている」とかというのは非常に簡単だ。
  
もちろん議論の最初期にこう述べざるをえない場合はある。
 
しかし、同じ相手と議論を続けていくなかで、こうした意味のことを言い続けるのであれば、相手に加重な負担を強いるフェアではない議論の仕方である。
 

リアルとウェブのつなげ方

完全に個人的メモ。
梅田望夫さんが『ウェブ進化論』を出して気づいたこと(ここ)。

 この本についても、中身はウェブの上でずっと議論してきたことが断片としてずっとあって、でもそれで伝わっていた人たちというのはすごく狭い、コアな読者だけだった。ところがそれをきちんと本という形にしてみると、今度は全然違うところへ届いただけでなく、リアルなビジネスになるわけですね。
  
 出版社としてもこれだけ売れれば儲かるし、書店だって儲かるから。何か巨大な歯車がかみ合い始めた感じがしたもんね。本が売れ始めたときの1週間目ぐらいに、ああ、こういうふうにかみ合うのかと。書店はこれを売ると儲かるから売りたい、それから出版社の広告部門も盛り上がってくる、営業部門も盛り上がってくる、みたいに。
  
 逆に言うと、リアル世界は、本当にリアルに動き出すまでは何を言っても何をやっても歯車はかみ合わない。本を出す前というのは「売れるかどうか分からない」から歯車が回らない。だけど何かを証明した瞬間に、リアル側の歯車がかたかたっと動いて、ブルドーザーが動きだす。こんな感じがリアル世界のビジネスですよね。

ウェブは当然として(つってもここじゃないが)「リアル」がんばれ(>自分)。

剽窃について(再度)

ブルーバックス2点を回収・絶版への件について。
http://shop.kodansha.jp/bc/books/bluebacks/oshirase.html
 
朝日新聞の記事で重要なのは以下の部分。

巻末に参考文献として挙げてはいたが、本文中に引用個所の明示がなかった。


「巻末に参考文献として挙げてあるから引用箇所を明示していなくても剽窃ではない」という考えは通用しない
、ということである。
 
 ポピュラー・サイエンスの本だからこの基準は緩くてかまわないのではないか、という考えがあるかもしれない。しかし、ポピュラー・サイエンスの本であるからこそ、余計にこの基準は厳守される必要がある。
 
 サイエンス(これに文系学問を加えても)の本質は、手続き的厳密さである。ポピュラー・サイエンスは、科学の知識とそのおもしろさをわかりやすくつたえることだろうけれども、だからといって、基本的手続きをおろそかにしてもよい、ということにはまったくならない。地の文と引用文を区別するのは最低限のルールだ。
    
それにしても、読売新聞の記事によると、回収・絶版となった一冊である『科学史から消された女性たち』では

盗用が指摘された書籍の著者や訳者の大半が女性研究者だった。

という。この記事ではこれ以上展開していないが、これだけでも以下のことが考えられる。
 すなわち、『科学史から消された女性たち』は、そうした女性たちのことを、物語ることにより復活させる意図で書かれたのかもしれない。
 しかし、地の文と引用を区別しない剽窃行為によって、そもそもそうした「科学史から消された女性たち」を復権させようとしてきた女性研究者たちを「消してしまう」結果となった、ということだ。
 
 著者が意図的に悪意をもってこうした二重の「女性の消去」をなそうとしたとは考えにくく、単純に、剽窃あるいは盗用について厳密に考えていなかった可能性のほうが強いのではないかと推測する。しかし、結果としてはそういうことになってしまった。
  

 剽窃については、以前、別のエントリー
剽窃禁止というゲームの射程]」
でも述べたので、そちらも参照されたい。さらに以下も参照。
http://d.hatena.ne.jp/kenjiito/20060309/p1

博論から本へ(英語圏において)

From Dissertation To Book (Chicago Guides to Writing, Editing & Publishing)

From Dissertation To Book (Chicago Guides to Writing, Editing & Publishing)

id:zappaさんが上の二冊を紹介されていたので(id:zappa:20060223#p3)、ちょっとおしゃべりさせていただく。以下は、自分用にそこでのコメント欄での発言を適宜編集したもの。
  
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flapjack 『Germano本(前者)は私も買いました。個人的には、Univ. of Toronto Pressからでている、The Thesis and the Book: A Guide for First-Time Academic Authors, 2nd edn, 2003 が性に合ってるかんじです。』

The Thesis and the Book: A Guide for First-Time Academic Authors

The Thesis and the Book: A Guide for First-Time Academic Authors

flapjack 『いま、パラパラしてみて、昔読んだ記憶をよみがえらせてみたんですが、Germanoの本は本人が編集者なので、どうやって出版してくれるところを見つけるかとか、そういった実務的な部分をまんべんなくカバーしていますね。一方、The Thesis and the Bookのほうは、論文から本にするときにテクストをどういじるか、ということをもっぱら扱っています。Germanoで出版への道筋というものを理解したのですが、しかし、やっぱり元に本になるテクストを準備していかないとだめなわけじゃん、ということで後者を買ったという次第です。』
 
zappa 『Germanoの下もテクストいじりの話ですね。実務的な部分っていうのは非常に興味があるので上の方が面白く感じたのかしら。まだ全部は目を通していないのですが。』
 
flapjack 『ビジネスとしての学術出版の世界の話としておもしろいですよね。日本のように出版助成金頼みというわけではなくて、学術出版でもぎりぎり商業出版としてなりたっているようなので、そこらへんがおもしろいというか(認識ちがいがあるかもしれませんが)。
 Germanoの下はそういう話なんですね。違いはなんだろうと思ってました。これって、去年でたばかりということは、順番としてはさっき書いたのでよいということかな、と。』
  
zappa 『ケンブリッジの同級生も一人PhD取得後学術商業出版社に就職しました。こう、人文系学位取得者の就職口の一つとして名門私立校と学術商業出版社はわりと確立しているイメージがありますよね。日本だとそんなことないんだろうけれど。』
  

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文系学術出版の世界については、アメリカと日本の双方のマクロ的状況およびその関係、変化、その意味について

出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生

出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生

が良質だと思う。

追記:長谷川一氏のブログ http://booklog.kinokuniya.co.jp/hasegawa/
あ、この本前から読もうと思っててそのまんまになってた。読もう。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hasegawa/archives/2006/02/post_4.html

なぜ人は書くのか (認知科学選書)

なぜ人は書くのか (認知科学選書)

笑顔

ベタベタなことを書く。こんなことを書きながらも、フィギュアスケート女子決勝はしっかり見た。
  
荒川静香の演技を中継で見たときも、そしてその後何度リピートでみても感じ入ってしまうのが、最後にとんだジャンプを終えた後にこぼれた笑顔だ。そこまでの演技もすごいのだが、そこからフィニッシュまでの演技がえもいわれぬ美しさだった。